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254.蒼いラビリンス

● ●  254.二部 第五章7  ● ●


 その間に、貴子夫人を使者に、ばあやを通して会長は手を回して来た。貴子夫人の予想に反して、ばあやは夫人との対面を自分一人で受け持ち、エヴァ夫人と私との対面を、頑として聞き入れなかった。
「――ぼっちゃまが江川家の跡をお継ぎになると決めたのなら、私はぼっちゃまの跡をついて行くだけです。もちろん、奥様は、江川家にはお入りにならないでしょう。はい、奥様は私にきっぱりと仰いました。『……もし、俊美が自分の野心を最優先にして葵を棄てるなら、私も俊美との縁を切って葵と二人海外にでも行って暮らすわ。あなたが里純同様、俊美について行くように、私も何を取って何を切り捨てるか、とうに覚悟は出来ているわ』と」
「……何故? そんなにまでして彼女は、息子より葵さんと取ると言うのかしら?」
「奥様の母としての賭けでございます。愛しみ信じて育てて来たご自分の息子さんが本物であったか」
「わからないわ」
「奥様は、ぼっちゃまを支配者に成されることなど、少しも望んではおられなかった。奥様の願いは、里純様のように何の報酬も求められない、ただ一人の女性を守り切る殿方に成って欲しかったのです。お二人が仲睦まじくおとぎ話をしてらした姿が、思い起こされます。里純様は、奥様のお腹を擦りながら仰っておられました。『……やがて、何時か、お伽話がお伽話として一笑に付されることの無いような世の中になってくれたら……』奥様は自信を持ってお答えになられました。『きっと、この子を、そうした王子様に育てて見せるわ』」
「……どうしてかしら? 何がいけないと言うのかしら? 里子は憐れな娘です。里子を守ってあげて欲しいのです。葵さんは気丈な娘さんのようですし、俊美なら、二人の女性を幸福にすることも出来るでしょうに」
「あなたにはお解かりに頂けないでしょう。里子様に傷つけられたぼっちゃまは、それまで順調だったご成長も途絶えさせられるほど打ちのめされた毎日だったのです。……自殺も多分お考えになられたこともあるでしょう。外にお出になるようになりましたものの、氷のような方になられまして、どんなに可愛らしいお嬢様方に取り巻かれても、誰にもお心を開かなかったのでございます。神経質に成り過ぎた一時期は、お帰りになるなりシャワーを浴びて、脱ぎ捨てた服に染み付いた匂いを直ちに消すよう命じられて。学校でお嬢様方に厳しい目を光らせていたのは、みんな里子様への復讐だったのでございます」
「……憎んでいたと言うの? 俊美はずっと」

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255.蒼いラビリンス

● ●  255.二部 第五章8  ● ●


「どうした? 高橋、葵に何か?」
「別に。今日はお前の近況伺いに皆の代表として様子見に来たんだ。どうだい? あちらの姫君のご様子は?」
「まぁーどうにか落ち着いたところだ。俺のズルギツネの方は大丈夫なんだろうな?」
 聞きながら俊美は、高橋君の向かいの席にドカッと座った。
「大丈夫どころか。他の男と遊ぶことに夢中で、俺のことなど忘れてしまったと言うんじゃないだろうな? 葵に伝えておいてくれ。そっちがその気なら、こっちだってもう一度考え直すってな。どうだ? こう言えば、あいつも大人しく俺の帰りを待つようになるだろう? ……どうした? お前は、葵の皮肉を肩代わりしに来たんじゃないのか」
「……あ、いや。流石だと思ってね。離れて居ても葵姫の監視に怠り無いか」
「俺を甘く見るなよ。俺がお前の言葉だけを真に受けて安心しているような、男だなんて思うなよ。そうだ、伝言に付け加えておいてくれ。で、どうだ? 葵、俺より目ぼしい男が見つかったか? 何なら俺のマンションを、新しい愛の巣作りに提供してやっても良いんだぞ、ってな」
「相変わらず嫉妬深い男だな、お前も。葵君が息苦しいお前の重圧から解き放たれている今だけ自由で居たい気持ち、僕には解るよ。それに葵君は不特定多数のグループ交際で、けっして個人的な付き合いはしてないんだから。葵姫らしい清純さ、お前はまだ判らないと言うのか?」
「俺一人がこんな思いしてる時にな。男達と遊び呆けて、イイご身分だ……帰ったら一から躾け直してやる」
「なに言ってんだ。葵君が一人暗くお前の帰りを待っていたら、お前だってやり切れないだろう。葵君が遊びまわって居ると聞いて、いくらか安心しただろう?」
「……そりゃまぁーそうかもしれないが。でも、やっぱり許せない。大人しく俺の帰りを待って居て欲しい」
「わかった。最後の言葉だけを伝えておくよ」
「お、お前にしてはあっさり引き下がるんだな。やはり何かあったのか?」
「いいや。お前がいささかも心変わりしてないと知って、ちょっと驚いて居るんだ」
「お前まで俺を見くびるのか? 俺がそんな男だと思っていたのか?」
「ま、実はそうなんだ」
「何?」

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256.蒼いラビリンス

● ●  256.二部 第五章9  ● ●


 その日、俊美が帰って来ると、里子さんはお父さんと一緒に、お母さんの実家に行って居た。祖母から、そのことを教えられた俊美は正直ほっとした溜め息ついていた。今夜は里子から解放されるな……高橋と飲みに行こうか……すぐさま電話連絡とってから待ち合わせの時間までの間、少し休んでおこうと鏡の前でネクタイを緩めていた。
 その時、トントンとノックする音。振り向きもせず答えていた。
「はい。どうぞ。あぁ、コーヒーなら、そのテーブルに置いてってくれ」
 返事が無いのと、メイドにしては鼻につく香水に、異質な空気を感じ振り返った。
「――君は、メイドじゃないね」
 女は、持って来たトレーをテーブルの上に置くと、魅惑的な笑みを浮かべていた。
「はい、私はマッサージ師です。少しお疲れになっているようだとか、会長に命じられて参りました」
「………」呆れて物が言えずあ然として俊美が見ていると。
「お疲れのご様子ですね。コリ過ぎて居るんじゃありません? どうぞお楽になさって下さい」
「ほぉー随分、魅力的なマッサージ師を頼んでくれたものだな」
「ありがとうございます。お手伝い致します」
 近寄って自分の上着に伸びて来た女の手を、反射的に身を避けて自分の利き手で捻り上げていた。
「い、痛い! 乱暴な。何をするつもり?」
「何をするつもりだって? そっちの魂胆はミエミエじゃないか。さぁー会長にお礼にいってやろう」
「痛い……手を離してよ」
 けれど、会長の下に行くまで、後ろで取った手を、俊美は離してやらなかった。

「……どうしたのじゃ? 俊美」
 女を力強くで連れて来た孫に、それほど驚かない祖父。
「何、ちょっとお礼を言いに来たまでですよ」
「気に入らなかったと言うのか? お前が寂しがって里心つかんように、気遣っただけじゃ」
 まったく邪気の無い祖父の眼差しに、一瞬言葉を失う俊美。
「……いいですか。今後このような心遣いをしてくれたなら、僕はその時点でこの屋敷を出て行きます。例え里子がどんなに危険な状態でも、です。判りましたか?」
 女を乱暴に放し、会長に押し付けると、会長の引き止める声も無視して廊下に出ていた。

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257.蒼いラビリンス

● ●  257.二部 第五章10  ● ●


 一九八五年 九月

 里子さんが昔の悪夢に襲われている間、私は未来の悪夢にうなされる毎日を過ごしていた。また階段から落ちる、あの夢だった。今度は突き落とされるのでは無い。俊美と里子さんが肩寄せ合って、どんどん上へ上ってゆく、私は焦って追いかけるのだけど、声が出ない。突然、私の目の前で両者の中間地点の階段が音を立てて崩れ始める。その一瞬悲鳴を上げる私に、俊美は振り向こうとするが、里子さんが話しかけると、彼にはもう、私の声は聞こえない。何度も何度も俊美の名を呼び続けている中に、階段と共に二人の姿が跡形も無く消えてしまう。

***

 目が眩むライトの光と共に、手術着姿の医師の顔が視界に入って来た。
「あと、もう少しです。頑張って下さい!」
 いったい何のこと? とても遠い所で、新しい生命の芽が誕生の声を上げているのが聞こえる。
「元気な男の子です」
 看護婦さんから産着に包まれた我が子を、満足げな笑みを浮かべて受け取る俊美。
「……これで江川家は絶えなくて済む」
 安堵の吐息を洩らすと、横に居る里子さんに、「ほら、里子。江川家の跡取りが産まれたよ。今日から君がこの子の母親だ」
 俊美はまるでキューピーちゃんでも渡すような気軽さで、自分の息子を里子さんに上げていた。
「嬉しいわ。俊美兄さん、どうもありがとう」
 受け取った里子さんも、また可愛い子犬を一匹譲り受けたような調子なのだ。私が生死をかけて苦しんで産んだかけがえのない命なのに。何で、十二歳の少女と十四歳の少年に、大切な玩具を奪われるような羽目になるのだろう?

 労いの言葉と共に肩を抱き寄せて俊美は、同じ病院内の廊下を歩かせ、これからはこの病室で休んでくれと言う。
 大任を果たし、「……ありがとうございます。総督」と、促されるまま入る私。気づくと、そこは個室で、でもテレビもバスルームも無く、そして窓には鉄格子が嵌められていた。愕然として振り返ると、俊美は、もう重い扉に手を掛けていた。
「御苦労だった、野々宮君。この部屋は十二年間、僕をおちょくってくれた報酬だ。存分に味わっておくれ」
 勝利者の笑みを高らかに浮かべて彼は去って行った。甲高いソプラノの笑い声だけが何時までも白い壁に木霊していた。

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258.蒼いラビリンス

● ●  258.二部 第五章11  ● ●


「……俊美兄さん……」「……ん……」
 砂浜で夜明けの海を眺めていた二人は、ずっと前から言葉を交わすことも無く、思い出に浸っていた。
 俊美は先にスクッと立つと、「もう気が済んだだろ……君は悪夢から解放された。覚めない夢なんて無い。朝が来ない夜なんて無いんだよ」
「……でも、里子は信じて来たお伽話の世界からずうっと抜け出せないわ」
「時期にその夢も消える。消えないかもしれないな……君なら本当の王子様を見つけ出せるかもしれないな……勝手だけど、その男に嫉妬するね。僕の大切なたった一人の妹を任せるんだからね。何処かで噂を耳にしたら、すっ飛んで来るかもしれないよ。どんな男だ? 本当に王子様なのか? ってね」
「……俊美兄さんだけが里子の王子様でした。あんなに我が儘でお姫様に成りたがっていた私なのに、俊美兄さんは忘れずに居てくれた。里子は俊美兄さんの優しさを封印して、明日からは江川家の跡継ぎとして生きて行くよう努力します。例え……里子の代で終えようとも……」
「……すまない、里子。所詮僕は江川家の人間では無かったね。なのに、大きな顔して、君達を掻き乱して……」
「もう、何も仰らないで」
 二人はひしと抱き合い、俊美は里子さんの涙を塞ぐ為、里子さんは俊美の後ろめたさを包み込む為、唇を重ねあっていた。江川家の人間だけに解る運命の無常に、やり場の無い哀しみを分け合っていた。

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259.蒼いラビリンス

● ●  259.二部 第五章12  ● ●


「横浜?」
「里子が行きたくないと言うのなら、止めるよ」
「いえ、行きます。行きたいわ。俊美兄さん」
「そうか」
 十二年前に描いたコースを一つ一つなぞりながら戯れあった二人だった。中華街でランチをした後、再び外の陽射しに誘われて、あの公園が遠目に見える所まで来て教会の前まで辿り着いた。折りしも陽射しの弱まった土曜日の午後、白い正装に身を包んだ若いカップルが仲間達の花びらと拍手、冷やかしを受けて、幸福に満ちた目で見詰め合っている。白いチャペルが永遠の愛を祈るかのように深く響き渡っていた。
 幼い頃から夢見たクライマックスシーン。里子さんはとても遠いものを、決して自分が入り込めぬ一枚の絵に心奪われ、じっと見つめていた。そんな里子さんを、少し後ろで見守る俊美も声をかけれず、しばし身動きも出来ず一緒に眺めているだけだった。
――里子だけの夢じゃない。俺にとっても幸福な将来の夢だった。俺が手を取る新婦が変わったまでのこと。艶やかに光輝くドレスに身を包み、政財界の重鎮達の視線もうっとりさせるほど、落ち着いた仕草で魅惑的に微笑む江川家の紅薔薇。人々の称賛の溜め息も、自信満面に受け取って居る。お姫様そのものの里子。

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260.蒼いラビリンス

● ●  260.二部 第五章13  ● ●


 俊美の生家で手厚く持て成されてティータイムをとった二人は、引き止める夫妻を、予定があるからと断って自宅に向うことにした。あの夫婦は、里子さんを幸福な気分にしてくれた。初恋の女の子を連れて行くから、そのように受け取って欲しいと告げられて居たから、そう言うロマンチックなことが好きな夫婦も、幸福な微笑で包んでくれた。
 かえって裏目に出たのだろうか、幸福な夢をもっともっとと願う里子さんは、俊美を引き止めるもっともらしい口実を次々と繰り出していた。俊美の計画では後は、母とばあやの待つ屋敷に直行するのみだった。それが車に乗り込もうとしているところ、突然。もう一度あの教会が見たい。あの辺の坂道を駆け下りてみたいと、俊美にねだり始めた。愛らしいおねだりに、もともと弱い俊美は時計を気にしながら願いを聞き入れた。里子さんは陽気に駆け出し、俊美に手で指し示して、あれは何? ここは何処? と、後追いする俊美を引きずり回していた。時間が時間だけに去年と違って、景色を楽しむ風情も無く、ほんと石を投げればアベックに当たると言う位、同じシルエットのペアがごっそりと集結していた。自分もその中の一員だと思うと、うんざりした気分になった俊美。
 ラジカセを流して座り込んで海を見ているカップルが居た。流れてくるメロディーに条件反射でピタリと動きを止める二人、音のする方に耳を澄ましていた。『眠れぬ夜』だった。その次の曲も、同じ声なので、そのままじっと聴き入って居た。俊美は詞の内容で、それが『秋の気配』だと判り苦笑いし始めた。
――葵、あいつ、一年前の今日、この曲を思い浮かべてはしゃぎまわっていたのか。よぉし、これもレパートリーに加えてやれ。
 俊美には他愛ないやりとりを思い出させる歌でも、里子さんには現在そのままの情景で哀しかった。
 神様は最後まで意地悪だわ。俊美兄さんの面影を秘めている人の声で失恋の歌を聴かせるなんて。どうして里子だけ、こんな目にあわなかければいけないの?
「……やめて! やめて」里子さんは驚く周囲の目から、耳を塞いで駆け出していた。
 その歌の歌詞に心奪われ、里子さんの存在を忘れかけていた俊美も、叫び声で、一瞬にして自分の役目を思い出し慌てて追いかけて捕まえた。
「――待て! 待ちなさい。里子」
 捕まえようと手を伸ばしたが、すんでの所で思い直した。
「里子もあの曲が嫌いなんだね。僕も、あの曲はちょっと訳ありであんまりイイ印象持って無いんだ。アハ、僕達ってやっぱり乙女座同士で気が合うんだね。どうだい? 里子、僕もあんな女々しい歌バースデーソングにしたくないから、これから耳直しに僕の家でリサイタルを開こうよ。どうだい? ん?」
 俊美の余りにもお気楽な呼びかけに、哀愁を削がれて里子さんは振り返った。
 余裕を持って俊美は里子さんに追いつくと、揺ぎ無い声で、「……帰ろう、里子。母さんが君を待って居るんだ」ポンと肩を叩き締め括った。
 か弱く、うん、と頷いた里子さん。二人だけの記念日が何時の間にか暮れていることを思い知らされた。

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261.蒼いラビリンス

● ●  261.二部 第五章14  ● ●


 エヴァ夫人が何か言おうとする前に、俊美が不審な面持ちで問い詰めていた。
「……高橋お前、葵が? いったい何のつもりだ?」
 怒りだした俊美に、お構いなく高橋君は言い放った。
「さぁーこれでお開きにしましょう。里子嬢。もうお時間です。僕がお屋敷までお送りしますよ」
 突然の夢の終わりに、目の前が真っ暗になった里子さんは、傍らに居た俊美に、救いを求めていた。俊美も応えて庇うように抱き寄せた。
「……失礼じゃないか、高橋。里子は俺が送る。余計な気使うな」
「待って、俊美。高橋君に頼んだのは、私なの。高橋君を責めないで」
 思いもかけない母の言葉に、うろたえる俊美。より深く傷つけられた里子さん。
「エヴァ夫人、あなたは黙って居て下さい。全て僕が憎まれ役を引き受けます。里子さん、僕は俊美の友人だけで無く、小夜子の親友でもある葵君とも友人なんです。お判りいただけますよね? 里子さん、俊美を、もう葵君の下へ帰してあげて下さい」
「止せ。高橋。お前が出しゃばることじゃないだろ。俺が送るよ」
「送りに行ったのなら、お前は帰って来れないだろう。それくらい判らないのか? 例えば今夜、酒を飲ませられるなり、アメリカで馴染んだクスリを味合わされたら、どうする? 江川会長は、それくらいのこと朝飯前だ。朦朧とする意識の中で里子嬢に言い寄られたのなら、お前は抜け出せないさ。そうなったら、お優しいお前のことだ。自分の愚かさを責め、里子さんを振り切ることも出来ず、里子さんの呪縛にかかったまま、どうにも動きが取れなくなるだろう」
「……やめて! 酷いわ。あんまりよ。葵さんが意地悪してるのね?」
「そうなのか? 高橋。葵がお前に頼んだのか?」

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262.蒼いラビリンス

● ●  262.二部 第六章1  ● ●


 江川社長の遺体は、警察に極秘のまま懇意の医者の死亡診断書のお陰で、解剖されることも無く火葬されることになった。江川家の中で誰一人として冷静に受け止められる者は居なかった。全ての手順は、日頃江川家の恩恵を受けて居る一流と呼ばれる人達によって執り行われていた。
 会長と共に打ちひしがれ精彩を失った貴子夫人に代わって、ばあやは屋敷の使用人達を切り盛りしていた。本来なら、長男そのひとを育てた乳母が采配を下すべきなのだが、最愛の主を失った老女には、もう何もする気力が残って居なかった。
 エヴァ夫人は躊躇った。誰か冷静に、江川家を見つめられる人物が必要だと、ばあや、里純君の友人達に相談してみた後、最後は自分の規律に従って、俊美に委ねることにした。自分は初めから最後まで江川家の部外者。俊美も江川の男なら、自分の力で江川家の一大事を納めるべきだろうと。親族としてではなく、個人の旧友として通夜に出席した。先に、ばあやを手伝いに行かせて。

 主の居ない屋敷のリビングで、私は高橋君と一緒に、小夜子の淹れるお茶を待っていた。江川家のお家騒動に比べ、テラスからの穏やかな陽射しが差し込むのんびりとしたひと時を過ごしていた。
「ねぇ、高橋君。私、経済なんて全然解んないだけど、こう言う大人物の知って、株の変動に繋がるんでしょ?」
 ピアノの前に座り込んで聞いていた私に、ソファで足を組み新聞を広げていた高橋君は顔を上げると言った。
「うん、そうだね。このことによってだいぶ株は暴落するだろうね。江川コンツェルンは、もともと江川会長の独裁経営で成り立っている。既に七十歳を越えている会長の跡を引き継いでいた、ただ一人の人物が亡くなったのだから、今頃はっきり数字に表われているだろう」
「そう。じゃ思った通り、江川家の安泰は風前の灯と言う訳ね?」
「そうだ。これで僕達の仕事もやり易くなると言うものさ。旨くいったね。葵君」
「フフ、ほんと。もう江川家なんて怖く無いわ。会長夫婦がじわじわと私を苦しめたお礼に、あの老夫婦を赤子の手を捻るように捩じ上げてやるわ。跡を継ぐべき跡取りは、恋のジレンマで役に立たないし」
「そうさ。ついに、僕達の出番が来たんだ」
「そう。ほんと、もう直ぐその時が来るのね」

☆☆☆

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263.蒼いラビリンス

● ● 263 二部  第六章2  ● ●


「――里子様。そのお嬢様は?」あの乳母の、私を見る目つき。
「……俊美兄さんの大切なお客様よ。それだけのお部屋を御用意して」
「いや、里子。余計な気使いは無用だよ」
「……そ、そうですね。里子は気の利かないことを……」
 戸惑いの後、俊美の返事を誤解して、声を震わす里子さん。
「いや、変な気回さないでくれ。葵は直ぐ帰るから必要が無いと言ってるんだ」
「何故ですの?」
「葵は単に俺の様子を見に来ただけだ。直ぐに迎えに来て貰うよ」
 二人の女の明暗を分ける言葉だった。口惜しい私は、彼を見上げていた。里子さんは少し間があってから、ホッと安堵の笑みを洩らしていた。

 俊美は、私を里純君の部屋に通すと、「ちょっと待っててくれ。とにかくシャワー浴びてすっきりしたいんだ」
 私が手を出す暇も無く、如才無い手捌きで着替えを用意しバスルームに入った。私は好奇心一杯の目で室内を物色していた。――何となく馴染み易い部屋だった。 
 ラフな格好に着替えた俊美が頭をタオルで擦りながら出て来た。
「フー、これでさっぱりした。まだ暑いな。お前はどうなんだ? また痩せたな……どうしても夏には弱い奴なんだな……」
 里純君の写真を背にしていた私を、しげしげと眺め憐れみの表情浮かべている。見つめられて、はにかんで彼の視線をまともに受けれないで居た。
「どうした? お前の方から来るなんて、思ってもみなかったぞ。葬儀の間中もしかしてお前が来てくれるんじゃないか、と気になって仕方なかったんだぞ。……良く来てくれたな。葵、初めてだな……俺が厄介な目に合っている時に現れてくれたのは……どうした? さっきから黙ってないでお前も何か言ってくれよ。俺に言いたいことがあって来たんだろ? さぁー」

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264.蒼いラビリンス

● ●  264.二部 第六章3  ● ●


「どうなんだ?」返答いかんでは、平手打ちの構え。
――や、やだ。こんな所まで叱られに来た訳じゃないのよ。
「ち、違うの。俊美を信じる信じないじゃなくて……単に私の愚かなジェラシーから探りを入れてみたの。だって、私、お姫様の里子さんから見れば自信なんて……俊美をじゃなくて、自分が信じられないの。だって、里子さん思っていた以上に美しい人だったわ。覚醒した今では、生まれながらの貴婦人そのものの才気に輝いている瞳、私まともに見れなかった。
 だから怖かったの。知らなくてイイ事まで知りたくなっちゃうの。俊美は、里子さんと……そうなっても自然のことだと頭では解って居るの。でも、心はそうはいかないの。ごめんなさい。やっぱり女は抱かれると弱くなるわ。どうしても心と一緒に体の自由も奪おうとしてしまう。俊美は自分一人のものに縛り付けたいと願ってしまう。ごめんなさい……」
 もはや制御は不可能だった。絶対口にしてはいけないといさめていたのに。里子さんは嫌だ、許せない、と言う叫びをかき消すことが出来ないで、こうして情けなく涙で訴えようとしている。ズルイわ。葵。女特有の狡さよ。恥じなさい。
 肩を押さえる手が緩くなり、俊美の表情も穏やかなものになった。
「……葵、お前……そのことを気にしていたのか?」優しい兄さん顔にホロリとした。
「うん。恥ずかしいけど、そのことばかり想像してしまうの。振り払っても振り払っても。自分がこんなにイヤラシイ人間だとは思ってなかった。もっとドライに、里子さんの覚醒の為にはむしろ当然のことと、観察者の目でやり過ごせると思っていたのに……」
……あぁ、ついに言っちゃった。いざとなれば、私も嫉妬深く感情に振り回されるだけの女。こんな女に成るまいと誓って居たのにな……俊美は分かったと言うように、軽く左手で私の肩をポンと打って椅子に座り直した。
「……そうか。お前が気にしていたなんて、ちょっと意外だったな……お前の言う通り、俺も里子とそうなっても、いや、そうならなければ里子を断ち切れないんじゃないかと覚悟していたんだ。出来るならお前の耳に入れないで済むなら済むに越したことはないが、お前なら気にしないでいてくれると思ったから、後は流れに任せて自然に振舞えば良いと思っていた。でも、俺も割り切ることが出来なかった。かと言って、そうせずに、里子との十二年間を終わらせることが出来るだろうかと随分迷った。……で、結論を聞きたいか?」
 私は椅子の背に手を掛けて、体は床に崩れ落ちていた。

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265.蒼いラビリンス

● ●  265.二部 第六章4  ● ●


「……俊美兄さんは、また嘘を吐いたわね」
 俊美が中に戻ると、憤然とした面持ちで待っていた里子さん。
「……ん? 何が?」身に覚えの無いことだと、首を傾げる俊美。
「葵さんのことズルギツネだなんて……ほんと鈴蘭みたいな愛らしい人だったわ。俊美兄さんの話で連想していたアイスドールどころか、あんなに可愛らしい人だとは思わなかったわ。里子よりも、子供っぽく俊美兄さんに甘えて……」
「ハハ、あいつの一面だけ見て侮ってはいけないよ。あれがあいつの手なんだから。里子もこれからは、あいつのような狡さを身につけなければいけないよ。亡きお父さんの後を継ぐのは里子一人なんだからね」
「……俊美兄さんは?」急に心細い顔で見上げた。
「僕も狡さを身につけているから、面倒に巻き込まれる前に退散するよ」
「里子を、里子を守ってくれないの? お父様の頼みを聞いてはくれないの? 酷い、酷すぎる」
「聞いてあげたくても、聞けない身の上。江川家に縛られる義務は、もう無い。時期おじいさまが、一族の者に、里子を後継者として披露するだろう。僕の役目は終わった。ばあやと、父の遺品を片付けさせて貰ってから、行くよ」
 そう言うと俊美は、瞳を濡らし始めた里子さんにお構いなく、廊下の先をスタスタと歩き去っていた。

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266.蒼いラビリンス

● ● 266.二部  第六章5  ● ●


「里子。僕は初七日の法要が済んだら、この屋敷を出て行くよ」
「……何故? どうして? どうしても葵さんの下に帰らなくては行けないの? 葵さんが直ぐ帰って来てとねだったからなの? そう、そうなのね……葵さんはやっぱり里子が憎らしいんだわ……里子も葵さんが憎らしいわ。だって、里子の最後の願いも聞き入れてくれず、俊美兄さんまで、さっさと取り上げてしまうんですもの。
 俊美兄さん、本当にあんな人と結婚するの? あの人、里子よりずっと子供っぽい人だったわ。里子が話しかけても、一言も答えようとしなかったし。俊美兄さんは里子を我が儘だと仰るけれど、葵さんの方がずっと甘やかされているみたいじゃない。俊美兄さんも叱ろうとしなかったわ。何時でも、里子には大人に成らなきゃって仰ってたくせに。葵さんには好き放題させているのね。
 今日、ここへ訪れたのだって、俊美兄さんが呼んだ訳でも無いのに、私の目を盗んで入り込んで一言も挨拶無しに、俊美兄さんを待ち伏せして。ばあやから聞いたわ。葵さんって移り気な人なんですってね。俊美兄さんが里子と一緒に苦しんでいる時に、他の男の人達と遊びまわっていたとか。俊美兄さんの親友の高橋さん、あの方までも巻き込もうとしたんですって? だから、あの方、里子にあんな意地悪言って。ばあやが言ってたわ。所詮、下賎な産まれの者はどんなに取り繕うと卑しい血筋を隠せることは出来ないって……」
「……それから?」
「……え?」
「それから、まだ言いたいことがあるんだろ? どうせだから全部言っちゃえよ。お前の本音が聞きたいんだ」

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267.蒼いラビリンス

● ● 267.二部  第六章6  ● ●


「俊美。お前が帰る前に、話しておきたいことがある」
 祖父は一人で、里純君の部屋のドアを開けていた。
 俊美とばあやは、帰り支度をしている真っ最中だった。
「何です?」
 ボストンバッグに向って屈み込んだまま顔を上げた。
 ばあやは会長の顔を見るなり、さっと立ち上がって椅子を勧めに行った。
「あぁ、どうも。百合さんも居てくれて良かった」
 礼を言いながら老人は腰を降ろした。
「実はな、あの絵のことなのじゃ。政義の。お前の母が去年の春にくれた。あれをどうやって手に入れたのか教えてくれと頼んだのじゃが、お前の母は、パリの名も無い画廊で偶然見かけただけだと言って、素っ気無い返事しかくれなかった。わしは彩子の手がかりだと、もっと詳しく聞きたかったんじゃが。彩子の行方なら追う必要はありません、と取り付く島も無く、渡すと、さっさと帰ってしまった」
「……いったい、何のことを仰ってるのですか?」
 俊美はキョトンとした表情のまま立ち上がった。これには会長の方が戸惑った。俊美と共に、ばあやの方に視線を向けたが、こちらも心辺りの無い様子だった。
「絵じゃよ。政義の。彩子が描いた。かれこれ三十年近く前の。お前の母が、我が家に置くよりも江川家の方が相応しい。彼も帰った気がするんじゃないかと思って、そう言ってお前の母、自ら運んで来た」
 断片的ながら主要語句を全部散りばめて、老人は繰り返し説明した。
 しかし、一向に、俊美の困惑な表情は変わらない。
「……政義様の絵ですか? 彩子様が描いた」漸く思い出すものがあった、ばあや。
「里純様の絵では無くてですか?」
「そうじゃ。政義の絵じゃよ。里純の絵もあるのか?」
「はい。あ、お話しときませんでしたか? 結婚した時、奥様がお持ちになって、それ以来ずっと今でも奥様の寝室に飾られています」
「親父の絵がどうしたって?」
「違う。わしが聞いてるのは、彩子の描いた絵の方じゃ」
「はい。ですから、彩子様が描かれた里純様のお若い時のお姿です」
「……は?」ますます訳の分からなくてなってきた会長。
「彩子のだと言うのか?」
「はい。私は、彩子様の絵を見たことは無いのですが、里純様が、確かに彩子だ、自分だと驚いていらっしゃいました」
「……どうしたものかな。同じことを話しているようで、意味が通じ合わない」
「いったい、絵がどうしたって言うんです? さっきから二人で何を話しているんですか?」
 老人同士の意味不明の会話に、入れなくて苛立っていた俊美。
 苛立って来たのは、会長も同じだった。
「じゃから、わしは……ん、もう、まどろっこしいの。絵を見れば分かる。政義の部屋に来てくれ」
 説明するのに疲れて、手っ取り早い方法を思い出した会長は立ち上がると、インターフォンを取り、三階の部屋の鍵を持ってくるよう、命じていた。
「……政義様のお部屋ですか?」聞き返すばあやの顔に不吉な予感が走った。
「………」俊美も、ついに来るべきものが来たと恐怖を感じていた。

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268.蒼いラビリンス

● ● 268.二部  第六章7  ● ●


「酷い! おじいさま。俊美兄さんを帰すなんて……」
 祖母と帰宅するなり悲しい報せを受けて、祖父を責める里子さん。
「あんまりでございましょう。里子の留守時を狙ってなんて、俊美も薄情過ぎますよ。一言の挨拶も無しに、里子が可哀相じゃありませんか」
 孫と同じように、悲しみ怒りをあらわにしていた貴子夫人。
「目の前で去って行く姿を見る方が辛いだろう、と思ったからじゃ。だから、今日はわざとお前達を外に出させたのじゃ。それに里子、お前も、もう潮時だと感じていたのじゃろう? 分かっていながら出かけたんじゃないのか?」
「それは……」祖父の指摘に、里子さんは目を伏せる。
「諦めろと仰るのですか? 俊美のことを。あなただって可愛くてしょうがなかったでしょうに。もう、里子だけじゃないんです。俊美の居ない生活なんて、あなたにとってもわたしにとっても考えられなくなっていたじゃありませんか」
 言葉に出来ない里子さんに代わって、貴子夫人は寂しさを夫に訴えていた。
「そうじゃ。わしだって俊美が可愛い。今では里子と同じ位にな」
「でしたら、直ぐ連れ戻して下さい。力づくでも」
 何時に無く激しい妻に、老人は哀しい目をした。
「……貴子、お前から、そんな言葉を聞くとはな……」
 腕を組んで二人から離れ、テラスを見下ろし思案した。そして、やっと老人は、結局は愛情なのだと自分の寂しさを認めた。これは政略結婚なんかじゃない。自分に言い聞かせて、二人に振り返った。
「……そうじゃな。わしも、もう……俊美の居ない江川家は寂し過ぎる」
 祖父母の寂しさは、子供の産めない自分のせいだと、悲しみを深める里子さん。
「実はな、里子。政道は最期までお前の身を案じ、俊美がこの江川家を継ぐように仕掛けていったのじゃ」
「政道さんが? 何をしてったんですか?」
「言わば、これは最後の切り札じゃ。いや、むしろただの悪足掻きにしか過ぎなくなるかもしれん。力づくの汚い手段と言えるだろう……どうじゃ? 里子、最後まで戦ってみるか? 下手するとこれは勝っても、一生俊美に憎まれる結果になるかもしれん。わしらは憎まれても良い。でも、お前に対する愛情は二度と取り戻せないかもしれんぞ」
「……私は、江川俊美が欲しい。例え憎まれようと……」
 里子さんは、決意を秘めた目で、祖父を見返した。
「そうか……」孫娘の下した決断に、辛そうに顔を伏せた江川会長。

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269.蒼いラビリンス

● ●  269.二部 第六章8  ● ●


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 柱時計の針がもう少しで十時を指すところだった。リビングで団を取っていた三人は、直ぐにはそれが車のエンジン音だと確信することが出来なかった。最初に気づいたのは、エヴァ夫人だった。間違い無く聞き馴染んだ響きだと。三人で顔を見合わせお互いに、どうしよう? と迷っている中に、待ち侘びていた訪問者はチャイムも鳴らさず勝手知ったる自分の家、とばかりに、黙々と屋敷内に入り込んで来た。エヴァ夫人は持っていたグラスをテーブルに置いて、二人に幸福一杯の笑みを送った。高橋君も何も言わず勝利の乾杯を、エヴァ夫人に示してグラスを傾けた。小夜子は、俊美の顔がドアから現れるまで、震えながら手に持ったグラスを傾けたり、テーブルに置いてみたりして落ち着けなかった。
「ただいま」ドアを開けて、ひょいと顔を出すと愛想気の無い声を出していた。口を開けないまま微動だにせず、自分を凝視している三人の視線にも全然お構い無しで。
 一同を一通り見渡してから、「――あれ、葵は?」ネクタイに手を掛けながら俊美が尋ねていた頃、遅れてばあやが現れた。
「ただいま帰りました」使命を果たし終えた満足感で、誇らしげに笑みを湛えるばあやを見て、初めて安堵の吐息を洩らし口を開いた三人。
「……あらら、あ、葵? 葵はね、居るわよ。もちろん。安心して……」
 何時に無くしろどもどろのエヴァ夫人。
 立ち上がった小夜子はグラスを握り締めながら、空いている左手の人差し指で、私の所在を訴えようとした。
 いち早く冷静さを取り戻した高橋君は、一人用のソファでしっかりとグラスを置きながら、「葵君は自分の部屋でビデオを観ているよ」と、意味あり気な眼差しを送った。

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270.蒼いラビリンス

● ● 270.二部 第六章9  ● ●


「……本当によろしいんでございますか?  ぼっちゃまをほっておいて。もう、お止めください。葵様は、ぼっちゃまのお傍に居て差し上げてください。私のことまでお気にかけないで下さい」
「いーえ、今まで散々迷惑掛けてきたんだから、俊美の分も含めて、これっくらいのことしてあげたいわ。それにほら、エヴァ夫人って俊美君のお姉さんみたいな女性でしょう? だから私には、どうしたって俊美にとって、ばあやは育てのお母上、私にとってはお姑さんに思えて仕方無いの……だからかな、わざと今まで、ばあやを苛立たせるような真似ばかりしていたのは……俊美ったら、三代目までばあやに面倒看させるつもりよ。いくら気丈な、ばあやだって人間には限界があるのにね……ばあやは三十年間縁の下の力持ち、これからは気楽な余生送れるよう気を楽に持ってよ」
 えーいと、ベッドの上で膝をついて、ばあやの腰のツボを押し込むと、力を込め過ぎたのか涙を堪える、ばあや。
「……ごめんなさい。そんなに痛かった? 歳を考えて、俊美君にしたより手加減したつもりなんだけどな……」
「いいえ、いいえ。嬉しいのです。ほんとうに歳のせいか最近涙脆くなってしまいまして……どうでした? ぼっちゃまは何と言ってお喜びになられたのですか?」
「別に……うーん、効くぅーとは言ってたけど、あんまりグッタリしてるものだから憐れに見えて、初めてサービスしたのよ」
「まぁー何時もながら惚けるのがお上手な方ですね。ばあやはマッサージのことを聞いたわけじゃありませんよ。信じて待っていらした殿方がお帰りになられたのですよ。もう少しロマンチックに説明してくれませんか」
「……ん、そう言われてもね。ロマンチックなやりとりしなかったのよね」
「もったいぶらずに教えて下さいまし。ぼっちゃまは、何時もと同じ調子でただいまと言って入って来たんですから、葵様は何とお答えなすったんですか?」
「うん、ただいまって言ったわ。私もお帰りって言ってから、お疲れ様でした。大変お疲れのご様子、お背中でもお流ししましょうか? って言ったら、『いや、こんやは簡単にシャワーで済ますから背中はいいよ。それより悪いけど、ちょっと前みたいに肩揉んでくれないか? どうです? マッサージ嬢の葵さん、今夜は開店休業ですか?』って言う訳。それで私、遠慮がちな乙女座の俊美君いちいちそのようなことで、YES-NOを聞かなくてもよろしいのですよ。私の答えは、もちろん! YES・YES・YESですって茶かしたの」
「……なんですか? それは。私にはさっぱり」
「まぁま、大したことじゃないの。要するにその言葉は、二人の間で禁句になっていたんだけど、わざわざビデオ観ている最中に入って来るんだもん。

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271.蒼いラビリンス

● ●  271.二部 第六章10  ● ●


 あ、やばかった。もう少しで見え透いた罠に嵌っちゃうところだった。私が地理苦手なこと誰よりも知ってるんだ。おちょくろうとしているんだな、こいつ。
「あ、もう、いいぞ。疲れただろう。で、どうなんだ? 連れて行って欲しいのか?」
「あ、いえ、別に。現地に行きたいって程キョーミある訳じゃないの。唐突に今、ちょっと好きだったある歌が浮かんでね」
「……何だ? トルコ行進曲か。お前クラッシクも聴くのか?」
「あ、いえいえ、そのような高尚な音楽では無く」
――あ、でも、モーツァルトってご乱行の人だって映画化されていたな――ひょっとして去年の秋のCMソング『ピンクのモーツァルト』って題名もそこから来たのかな?
「ほれ、どんなのだ? ちょいと口ずさんでみろ」
「ううん、いや、ただね、高校の学校祭の前夜祭で、フォークダンスやディスコナンバーと共にかかって、踊り捲くった思い出の曲なの。『跳んでイスタンブール』って言うの、きっと知る筈無いわね」
「……うーん? わからんな。だからほれ、歌ってみろ」
「いや。要するに、イスタンブールってどんな所だろう? とフと思っただけ」
「ちぇ、お前の歌声聞けると思ったのにな……ふーん、イスタンブールか。生憎俺はギリシャ側からしかエーゲ海を見渡したことが無いんだ」
「まぁまぁ、そんなにお気になさらないで、ほんの戯言ですから」
「お前は何時も唐突に話題が飛ぶんだからな。あ、そうだ、ハネムーンどうする? エーゲ海なんかちょうど良いんじゃないか? お前の希望を優先してやるぞ。何処だ? トルコはちょっと……」

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272.蒼いラビリンス

● ●  272.二部 第六章11  ● ●


「……もう、四ヶ月ぶりに家に帰って来たと言うのに、伯父さんの初七日を待って。なのに不謹慎じゃない。さっさと服着なさいよ」
「なーに言ってんだ。お前が何時に無く素直に反応するものだから、面白くって茶かしてやったまでさ。これからは、俺がお前をくすぐってやると言っただろう。良くしゃあしゃあと言えたものだ。何時まで経ってもおっきしないのは赤ちゃんのお前の方じゃないのか……どうだ? 本当にその中二人してトルコにでも行って勉強するか? お前も、お姉さん達に扱かれれば、いくらかでも殿方を喜ばせるコツを学べるんじゃないのか。明日にでも連れてってやろうか? アハ、そう言えば、高橋も言ったこと無いって言ってたな……ついでに小夜子君も引き連れて、四人で研修しに行こうか? その後で実技訓練に取り掛かろうか。なんならパートナーを替えて。最近多いんだってな、世に言うインテリ階級。医師とか役人なんかの夫婦交換が。俺も外交官目指す身だし、そうなればお前もある程度の覚悟をしておいた方がイイんじゃないか。言葉を交わすより肌を重ねる方が万国共通で手っ取り早いって考え方もあるからな。ボディランゲージの語源もそんな所から来てたりして……」
 含み笑いをする彼が着替え終わった頃合を見計らって、振り返りマジマジと見つめなおしていた。
「……俊美、あなた本当にこの家の一人息子、江川俊美なの? いったいどうしてそんなに柔らかくなっちゃのよ? それは、何時も私か高橋君の得意とする台詞よ。まさかあなたから、そんな台詞を聞かされることになろうとは……」

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273.蒼いラビリンス

● ● 273.二部  第六章12  ● ●


 すっかりご機嫌になっている俊美は、私を見るなり陽気な声をあげた。
「お、来たな。葵。どうだ? ここで皆で乾杯したからお前も少しくらい飲めよ。ばあやもたまには良いだろう?」
 快く承知したばあやは、たじろぐ私の肩を押して、俊美の隣に促した。私が腰を降ろし、俊美がためらうことなく腕を回したのを見守ってから、ばあやはエヴァ夫人の隣の席に腰を降ろした。ウェイターの高橋君は、その間に二人分のカクテルを作っていた。エヴァ夫人は嬉しいようなんだけど、突然、里純君のこと思い浮かべて潤んでゆく瞳を隠しながら、一緒になってグラスを傾けていた。里純君との思い出は、たった数年間しかないのに、あなたにとっては全てだったんですね。
「どうだい? ばあや、葵は少しは役に立ったかい? 遠慮すること無いんだよ。ビシビシと葵を扱いて欲しい、頼むよ」
「いいえ、ぼっちゃま。葵様には、もうお教えすることなど無いのですよ。たった一年の間に葵様は殆どのことを身につけられました。流石、ぼっちゃまが見込まれたお嬢様だけありますね。葵様は、その気になりさえすれば何でも器用にこなせる方だと、ばあやはうすうす感じていたのです。それでかえって葵様が、自分は不器用だからの一言で俊美様を納得させていましたのが、憎らしく年甲斐も無く意地悪したりしたのですよ」
「あれ? ばあや、初耳だね。葵からそんなこと聞いてないぞ。こいつ鈍感な奴だから、ばあやが気にするほどのことじゃなかったんだろう。なぁ、葵」
 私は笑って、高橋君が作ってくれたカクテルを啜っていた。
「いいえ。今から九年前、葵様がご両親の下へお帰りになさることに決めたと聞かされました時、私は自分のしたことが後ろめたくて、お二人に隠していたのです。私は、あの当時ぼっちゃまから葵様を引き離そうとしていたのです。いいえ、これは、会長や奥様のご命令じゃございません。あくまでも私の一存で決めたことです。最愛のぼっちゃまのお心を射止めた娘さんに対しての、ばあやの焼き餅も混じっておりました。私には、何故か葵様が、ぼっちゃまの足を引っ張る、運命のお嬢様に感じられてしょうがなかったからなのです」
「……なんだい? 一体どんな仕打ちを葵にしたと言うんだい?」

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274.蒼いラビリンス

● ● 274.二部 第六章13  ● ●


 ゴロンとベッドの上に仰向けに寝転ぶと、俊美はつい本音を洩らしていた。
「……なぁ、葵。もしも、お前達の言うように、人には前世も来世もあると言うなら、来世はお前では無く、里子を妻に娶りたいと思うんだ。……どうだ? 良いか?」
――見たのね! 自分の未来を。この野郎! 何時の間に。何て残酷な言葉を平然と吐くのよ。所詮、それくらいの縁でしかなかったのよ、私達は。そうね、そうよね。来世では、あなたは私のことなどすっかり忘れてしまって、彼女と一緒になって幸福に暮らせば良いんだわ。
 返事をせず背を向けたままの私に、目を留めて慌てて言い添えた。
「……おい! どうした? 気にしたのか? ちょっとした戯言だ。お前なら直ぐに、お好きなように、私は来世は高橋君とでも一緒になりますからと、やり返すと思ったのに」
 ベッドから飛び上がり、私の肩を抱き寄せに来た。
「馬鹿だな……何とか言えよ。何時ものお前らしくないぞ。どれ、こっち向け」
 顔を引き寄せようとする俊美を、激しく跳ね除けていた。
「……バカ、俊美の馬鹿。それ程、里子さんの所に帰りたいなら、さっさと行っちゃいなさいよ。何も無理してまで、私と付き合ってくれなくても良いわよ。そうよ、お好きなようになさいよ」
「……この、馬鹿!」ベッドに殴り倒されていた。
「何、興奮しているんだ。俺が何時、そんなこと言った? 俺は、ただ、里子があんまり憐れだから……」
 ベッドに顔を伏して、声を押し殺して泣き出していた。
「……俊美にはわからないのよ。私が、俊美の居ない間どんな思いで毎日を過ごしたが。夜がどれほど長いものだったのか。私には、私には俊美しか居ないのに……知ってる癖に。なのに、そんな酷いこと平気で口にする人だったなんて、私だって一人の女よ。あんまりじゃない……」
 よよ……と泣き崩れたのは、私の本心だろうか? いいえ、いいえ。私の中の半分は、何時もどうすれば俊美の心が揺さぶられるのか。ちゃんと計算しているのよ。ほぉら、直ぐに表情崩して宥めに来た。
「……悪かったよ。お前がそれほどナーバスになっていたなんて……もう、俺達は里子から解放されたんだ。自由になったんだ。……もう、何の重荷も無くお前を愛することが出来る……」
 自分の言葉に酔ってるように、うっとりとした表情で言う俊美。

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275.蒼いラビリンス

● ●  275.二部 第六章14  ● ●


 私達の乗った車が遠ざかると、小夜子と一緒になって、ばあやに聞いて居たエヴァ夫人。
「で、ばあや。さっき、俊美は何て耳打ちしていたの?」
 満面に笑みを浮かべて答える、ばあや。
「ばあやにとっておきのお土産、江川家の跡取りを作って帰るよ。だから、それまでシャンとして待ってておくれ、って仰って下さったんです」
 ホーと息を飲んで顔を赤らめた一同。
「……まぁー俊美ったら、そう言う魂胆だったの」
「なるほど。江川俊美の子作り旅行ですか。やりますな、総督閣下も」
「……羨ましい、恭弘。私も子供、欲しい」
 後ろに居る高橋君を見上げて、ねだる小夜子。
「……小夜子、ちょっと待ちなさい。僕としては総督閣下の跡継ぎを見終えてからでないと、安心して自分の子孫を残す気になれない」
「なによ? それ」
「アハ、要するに、まだパパには成りたくないんだ」
「じゃあ何時? 何時、恭弘。もうじき三十歳になっちゃうわよ。そしたら私だって、そう沢山産めないわ」
「いったいどれくらい産むつもりだったの? 小夜」
「ザァーと、半ダースくらいかな? だぁって私、一人っ子でしょ。兄妹たくさん欲しいって、何時も思っていたんだ」
「ひぇー僕は、そんなに養い切れないよ。それに最後の子が生まれる頃には地球は、もう無くなってるかもしれないよ」
「また、世紀末説? いやね。そんなバカバカしい考え、もう捨てちゃいなさいよ。現に日本はこうして平和じゃない」
「はい、はい。確かに。でも、全ての結論は、俊美が計画した通りに成し遂げて来るかを見届けてからにしようね、小夜子。俊美が失敗して、こっちだけ成功したら、俊美がいじけちゃうだろ?」
「……まぁーそれくらいなら待っててもイイけどね」
「さぁーね、何処まで有限実行出来るかしらねぇ、俊美も」
 水を注すエヴァ夫人の呟きに、困った顔した、ばあや。

★☆★

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276.蒼いラビリンス

● ● 276.二部  第六章15  ● ●


 昼食後、町の中心を見渡せる丘の木陰で、軽く寝転んだ俊美。私も脚を伸ばして、晴れ渡った空を見上げながら、これからのことを思い浮かべて居た。
「――ん? 何の音だ?」
「お昼の合図の鐘の音じゃないの」とぼんやりと答えた私。
 何だ、寝ていた筈なのに、起きていた私よりも気がつくみたい。
 いきなりガバッと起き上がった。
「違う! あれは、教会の鐘の音だ。確かこの辺に教会があるって言ってたじゃないか」
 何をそんなに剥きになるのかと、不思議だった。
「あぁ、そう言えば、そんなこと言ってたわねー」
 でも、それがどうしたと言うの? 
 キョロキョロと辺りを見回す俊美を見て、のんびりとした構えで私も見回すと、それらしい建物が視界に入って来たので。
「あぁ、あれじゃない?」口調と同じゆったりとした動作で、指をさしていた。
「そうだ。あれだ! 行くぞ、葵」
 活動し始めた彼とは正反対に、体が重くなってきた私は素直に反応しなかった。
「何の用? 私は、ここで休んでいたいな。一人で行って来てよ。平気だから」
 動く気配の見せない私を、忌々しそうに見ていたが諦めて、「――ん、しょうがないな。先に話をつけてくるから」と言い残して駆け足で向って行った。
 なぁーに慌ててんだろう? こっちに来てから、あんなにせっかちなところ見るのは久しぶりだな。――あらら、もう御用が済んだのかしら? ここでは信じられないくらいスピーディな話し合い。
「早かったのね」
 息せき切って戻って来た俊美を迎えるには、余りにもおっとりした呼びかけだった。猫背加減でコックリし始めた頃だったのに、否応無く腕を引っ張られて起き上がらせた。
「真昼間から居眠りこくな! 話はつけてきた。行くぞ、葵」
「いたぁーい! なぁーに?」
「うまい具合に牧師が帰って来た所だったんだ。日も良いし、神の祝福を授けるのは自分としても喜ばしいことだから、誰でも歓迎するって言ってたぞ」
「え? 何を言ってるの?」

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277.蒼いラビリンス

● ●  277.二部 第六章16  ● ●


 背に硬くて冷たい感触を受けながら、懐かしい彼の全てを受け入れていた私は情けない声をあげていた。ハッとして両手で口をつぐんだものの、この瞬間を待ち侘びていた彼が聞き逃す筈も無かった。してやったりと言う表情がありありと表れていた。
「……ついに、お目覚めか眠り姫」
 顔をクシャックシャッとさせて、良く出来た教え子に対する御褒美とばかりに、「良い子だ。良い子だぞ、葵」軽く音を立てて口づけすると、離れた。そのままの姿で駆け出して、滝のシャワーを浴びに行った。気だるく起き上がって、恥じらいでまともに見れない私に、呼びかける。
「気持ち良いぞ。お前も来いよ」
 まだほんの少しの羞恥心がためらわせたが、――えいっ! と踏ん切りがつくと、彼の下に駆けつけて、禁断の園の熱い口付けを交わした。女に成った時から、私の思考力薄れ情念が満たしていった。

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278.蒼いラビリンス


● ●  278.二部 第六章17  ● ●


 一九八五年 十二月二十四日

「……見違えるほど女らしく成ったよ。うん、二十四歳の女の顔に成った」高橋君の称賛の声。
「ほんと。体に丸みを帯びたみたい」と小夜子も相槌を打つ。
「左様でございますね。ほんと淑やかな女の方に成られました」
 ホーと安堵の吐息洩らす、ばあや。この分なら――と期待してるのだろう。
「あちらの方では、ずいぶん俊美さんに可愛がられたようね」
 耳元で冷やかす小夜子。
 私はソファで顔を赤らめうつむき加減で、皆の好奇の視線に晒されていた。
 俊美は離れたテーブルで、私を取り囲む一同を横目にしながら、一人グイグイと久しぶりの自分の酒を流し込んでいた。
「……それにしても、お前達二人とも真っ黒になって帰って来るかと思っていたのに、全然変わりないな……どうもそれだけは納得出来ない」
 不審な面持ちで首を傾げる高橋君。
「そう言えば、そうね……」と小夜子も同じ戸惑い。
 そんなことなどどうでもイイ、私が聞きたいのは、ただ一つですと待ちきれないばあやの心を、代弁した高橋君。
「で、総督閣下。いかかでしたか? 目的は……表情から察する所、果せなかったようですね」
「まぁーそうなんですか? ぼっちゃま」落胆にしょぼくれる、ばあや。
「あ、赤ちゃんのことね。私も期待していたのよ。ねぇねぇ俊美さん。恭弘の言った通り?」
 小夜子の問い掛けに、白けた表情で、「本人に聞いてくれ」と一言言うと、またグラスを傾けた。
「あらら、完全に失敗だったみたいね」と息子を見ながらエヴァ夫人。
「そうなの? ね、葵? あんた、もう! 何か言いなさいよ」
 小夜子に腕を引っ張られて、やっと口を開いた。

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279.蒼いラビリンス

● ●  279.二部 第七章1  ● ●

     一九八六年
 故郷で過ごす最後のバースデーだった。大通り公園の祭りは溶けていたが、白い息を吐きながら天体望遠鏡を覗き込む人達で一杯だった。凍てついた夜空にハレー彗星が現れた。あらゆる運命の歯車が急速に回転し出す前兆であった。

>>>

「あら? 今日は、どんな曲聴かせてくれるの? 葵」
 ティータイム、ピアノの前に座り込んだ私に、真っ先にエヴァ夫人が声をかけた。小夜子とばあやもお土産のお菓子広げながら、何が始まるのか、面白そうに見ている。
「一年ぶりの故郷は、どのようでございましたか?」
「ご両親はお元気だったかしら? この一年つい、ご無沙汰してしまって」
「故郷で過ごす最後のバースデーはどうだった? お母さん達に甘えおさめしてきた? 俊美さん、天候が悪くて飛行機が飛ばないって、あんたの電話にイライラして待って居たのよ。あんただって物足りなかったでしょう? 変な義理立てせずに、二人で行けば良かったのに」
 三人の問い掛けに、簡単に答えていた。
「……母も、つくづく年だな……と感じました。あんなに母が小さかったなんて……フフ、今日は何となく、孝行したい時に親は無し、なんて言葉浮かんで、センチメンタルな気分です」
 キーを調べ、始める前に一言言い添えた。
「この曲を全ての偉大なる母親達に捧げたいと思います」
 私は、エヴァ夫人に目を向けてから、懐かしいメロディーを弾き出した。

 ♪ ♪ ♪

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280.蒼いラビリンス

● ●  280.二部 第七章2  ● ●


 春を間近にし、これからは良いことばかりが続くかのように思えてた。――なのに、単なる風邪で呆気なく、ばあやは逝ってしまった。春を待たずに、あんなに待ち望んでいた跡取りの顔を見ないまま。
「……丈夫なお子様をお産み下さい」
 私の手を取って、江川家の未来を託していった、ばあや。
 寝込んで一週間も経たない中に、こん睡状態のまま息を引き取った。控え目なばあやに相応しい安らかな最期だった。ただ、余りにも唐突で皆、泣けなかった。

 役所から帰るなり、ばあやに、ただいまを告げて明るく声をかけていた俊美。
「……そろそろ、お迎えが来るようでございます」もう、起き上がれないばあやの言葉に、「……何、言ってるんだ。秋には子供が産まれるんだよ。ばあやには、まだまだしっかりしててくれなくては、困るよ」笑って励ましていたけど、普段寝込んだことなど無い、ばあやだっただけに、俊美自身も……来たな……と感じていた。もう直ぐお別れが来ることは分かっていた。ただ、その日が分からなかっただけ。私達にも、せめてあともう少し……と言う思いと、今がもっとも相応しい時期なのかもしれない、と言う諦めがあった。
「……うん、任して。ぜったい、丈夫な男の子、産んでみせるから!」
 けれど、私は俊美のように、笑って答えられなかった。情けないことに涙が溢れ出し最期までちゃんと言えたかどうか。
 戦争で、夫も産んだ子も帰る家も亡くした女性だったからこそ、生涯を江川家の為だけに生きた人でしたね。それを憐れな生涯だったなんて、あなたには誰にも言いません。誰も。弔問客には、私の知らない時代のばあやを知る人達がたくさん集まって。まるで本当に里純君の母親、俊美のおばあさんみたいに。
「……わしも、そろそろじゃな……わしより若いもんが先に逝くのを見届けにゃならんなら、もう長生きもしとうないなぁ……」
 焼香後、ばあやの写真を見ながら嘆きの言葉を洩らし、隣の貴子夫人に怒られていた、江川会長。やはり、二人も、私に丈夫な子を産むよう頼んで帰って行った。俊美と話して行きたかったようだけど、俊美はほとんど放心状態だった。

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281.蒼いラビリンス

● ●  281.二部 第七章3  ● ●


 ついに、高橋君は、俊美の矛盾な言動の原因を探り当てた。自室で発作に襲われ、注射器も思うように持てなくなっていた俊美に代わって、痛み止めのモルヒネを打ってやった。ベッドで人心地ついた友から目を逸らし、窓辺に佇んで外を見つめながら高橋君は静かに切り出した。
「――何時からだ? 俊美」
 俊美はゆっくりとベッドから身を起して、肌けた胸のボタンを留めながら、自分も友から背を向けて告白し始めた。
「……二年前、葵が里子に乗り移られた頃、俺に忌まわしい予言をする、ばあさんが居た。気になって、直ぐ手術したアメリカの病院で診て貰ったところ特に異常は無かったが、この胸の傷は下手すると命取りになるかもしれないと言われた。それからも毎月の検診は怠らなかった。去年のちょうど今頃、胸がむかつくことが何度もあって病院に駆け込んだが、それでもこれと言った発見は無かった。医師の考えでは手術後、痛み止めにモルヒネを使い過ぎた後遺症では無いかと言われた。そうじゃなきゃただ単に神経的なものに過ぎないのでは無いかと。そう言われてみれば、胸のむかつき以外これと言った症状も無かった。たまに頭痛や目まいを感じることもあったが、これもアメリカでドラッグに身を浸していた名残が、神経の抑圧で出てきただけなのだろうと自分に言い聞かせた。それを裏付けるように夏が本格的になってきた頃、軽い症状さえも消え失せた。俺は、そこですっかり、ばあさんの予言に惑わされていた自分に気づいて、それから神経質になることを止めたんだ……フ、その怠慢が祟ったんだろうな……この一年の間に、手のつけられない腫瘍が巣食っていたなんて」
 情けない顔で、友の方を見た。
「春の定期健診で引っ掛かったのさ。その医師は、特に目をかけてやった部下の医学生の父親でね。内密にしてくれたのさ。直ぐに精密検査を受けるよう勧めてくれた――そうしたらな、高橋。ピシャリ! 宣告されたよ。下手したらあと三ヶ月しか持たないってな……これがどう言うことかわかるか? 高橋。たった三ヶ月で俺はいったい何が出来る? 今の俺には、皆の前で、葵と式を挙げることも籍を入れてやることも出来ないんだ。里子との駆け引きが公になれば、また葵が傷つく。今の俺には、葵を平静な状態で子供を産ませてやることしか出来ない……なのに、それすらも俺は出来そうも無いんだ……解っているんだ。俺は、とても秋まで持たない。お袋が七ヶ月の俺を抱えている時、親父は二十七歳の誕生日を目前にして海難事故にあった。これは輪廻なんだろうな? 高橋」
「……僕に出来ることが何かあるか? 俊美」
「ヤク切れで錯乱状態の中、葵の首を絞めないように充分なモルヒネと、あとは葵の精神状態を安定させたまま出産させてやってくれ。それからはお袋が引き受ける。頼む! 俺にはもう、自分で自分をコントロールすることが出来ない」
 ベッドに座ったまま頭を下げていた俊美。
「……わかった。例え、何があっても、お前の望みは僕が果す。いいか? どんな時でも、僕はお前の親友だ。それだけは信じていて欲しい」
「……ありがとう、高橋」俊美は救われる思いで、夕陽を浴びる友を見上げていた。

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282.蒼いラビリンス

● ●  282.二部 第七章4  ● ●


「おはよう、葵。気分はどうかな?」
「お腹が痛いの。すごく。でも、私、違う所が痛いような気がするの」
「……それは何処かな?」
「わからない。ただ、そんな気がするだけ」
「……葵」「なぁに?」
「僕と口きいてくれるんだね。僕のこと許してくれるの?」
「許すって何? 俊美なんか悪いことしたっけ?」
「……忘れちゃったのかな」
「ん、そうみたい。最近、物忘れが激しくって、自分が幾つなのかも覚えて無いみたい」
「君は今、二十四歳だよ。また一つ冬を通り越したからね」
「俊美は?」「ん?」
「誕生日は秋だったわね。今年で幾つになったっけ?」
「それも忘れたのか。ん……葵、Oさんの誕生日は覚えているかい?」
「うん。九月二十日生れの乙女座よ。私、調べたんだから」
「そうか。なら、僕の歳は、彼より一回り下だよ」
「一回り、十二も違うの? ええと、二十七歳、どうだっけ?」
「当たり。ついでに言っとくけど、僕の誕生日も九月で、二十一日の夜明けに僕は産まれたんだとさ」 
「うん、エヴァ夫人がそんなこと、ばあやだったかしら? 言ってた記憶あるわ。……でも、変ね?」
「何が?」
「私、一度も俊美にプレゼントしたこと無いの。私は一杯貰った記憶があるのに」
「ん……そう言えばそうだね。ほんと変だね」
「どうしてかな?」「どうしてだろうね」
「変だと思うのはそれだけじゃないの。確かに俊美にプレゼントした記憶なんて無いんだけど、俊美が私に、ありがとう、葵。何よりのバースデープレゼントだって、言ってたような気がするの。こんなことって変だと思わない?」

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Author:唯
 読書感想が主です。探偵が登場する本格ミステリー好き。
と言っても、難しいことは解らないのでトリックにはさほど関心無く、登場人物のやりとりを見るのが好きなだけです。

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